| ２ 「これはこれはレイ・シノハラ先生！ 名医に会えて光栄です！」 「ありがとうございます、クラコフ首相」 ──一週間前。二月十四日。 アレクサンドルが見守る中、王宮の大広間で差し出された首相の手を、怜はそっと握り返した。こういった席はどうにも苦手である。 非公式の会見の筈なのに、マスコミもかなり来ていた。玉座のすぐ近くにはイヴァンや他の廷臣たちも控えている。 怜がそっとアレクサンドルの方を見やると、彼は唇に笑みを浮かべたまま、真剣な眼差しでじっと見つめ返してきた。どきん、と胸がときめき、思わず上衣の内ポケットを押さえる。 「……！」 頬が染まるのを感じた。そこには成田で買った、チョコレートの包みが忍ばせてあるのだ。 この日、怜は二週間ほど滞在した日本から、エリシアに戻ってきたばかりだった。 去年の晩秋から初冬にかけて、この国で起こった事件の顛末を、当事者として日本政府や病院の同僚に報告、説明する必要があったのだ。また、アレクサンドル自身が今年、日本を訪問することも内々に決定したので、怜から彼の意志や都合を伝えるつもりだった。 病院の同僚や恩師の松崎は、怜と無事再会できたことを大喜びしてくれ、特に松崎は、友人だった国王の死や、その後の怜たちの行動についても詳しく知りたがった。その為に怜は日本にいる間はひたすら忙しく、さらに予定外のマスコミのインタビューなども行われて予定が延びてしまい、エリシアに帰国した時には、空港からそのまま、王宮に駆けつける羽目になったのだ。ちょうど同じ日に、エリシアにやって来た隣国レーデルの首相が、ぜひ怜に会いたいと申し出ていたのである。 その慌ただしい中で、怜はさんざん迷ったあげく、帰りの成田でアレクサンドルのために、フランス製のチョコレートを買ったのだ。ちょうど日本はヴァレンタインセールの真っ最中だったけれど、もちろん怜は、こんなことをしたのは生まれて初めてだった。 ──どうしよう、これ……── 怜は、ほんのちょっぴりだけクラコフ首相が恨めしかった。 日本から帰国の日程をメールで伝えたところ、アレクサンドルから当日迎えに行く、とすぐに折り返し電話があったので、怜はそのチョコレートを、エリシアの空港でこっそり手渡すつもりでいたのだ。むろん彼には内緒にしていた。けれど、ほぼ同じ時刻に首相がエリシアに到着したため、それが出来なくなってしまったのだった。 ──今夜……は、やっぱりまずいだろうな。首相はしばらく王宮にご滞在されるそうだから……── そんな怜の物思いをよそに、クラコフ首相はにこやかに、自分の後ろに控えていた若い娘を促した。淡い金色の髪に生真面目で聡明そうな青い瞳の、清楚な美人である。 「エリシアには今、シノハラ先生の元で医学を学びたいと、各国からたくさんの研修医が来ているそうですが、この度、二十四歳になる私の娘のエレーナもご指導をいただくことになりました。先生、どうか手加減することなく厳しく鍛えてやってください」 「はい。陛下からお話は伺っております。明日から、私の勤める病院で、研修医の皆さんにも勤務してもらうことになっていますので、私も出来る限りのことをさせていただきます。……確か、お嬢さんとは先ほど、空港でお会いしましたね」 怜が緊張した面持ちのエレーナに話しかけると、彼女は頬を染めてうなずいた。 「はい。買い物をしていて……。あの時は先生とは知らず、失礼いたしました」 「おお、そうでしたか！ 実は以前、私どもは当時の仕事の都合で数年間、先生のお国に住んでいたのですよ。それに私は前国王と同じ大学に通ったご縁で、エリシアにも何度か訪れたことがありまして。幼い娘が、王子だった陛下やこちらのイヴァン公と遊んでいただいたこともあるのです」 「ああ、それで……」 普段こういう席に来ないイヴァンも顔を出しているのはそのせいか、と微笑んだ怜は、ふいにあることに気づいてどきりとした。 「……！」 さっきから彼女は、じっとアレクサンドルの方ばかりを見ているのだ。むろん、怜や父親に話しかけられればきちんと応対するのだが、そうでない時はひたすら彼の方に視線を向けている。怜ははっとした。 ──もしかして彼女、アレックのことが好きなんじゃ……── 浮かんだ疑問は、すぐに確信に変わった。何故なら怜にも覚えがあったからだ。 アレクサンドルと一緒にいると、怜はどうしても彼から長い間目を離していることが出来ない。 気がつくと、いつも恋人を目で追っている。そして、何故か大抵は彼と視線が合ってしまい、真っ赤になるのだ。もちろん、人前では絶対に気づかれないよう注意しているのだが、二人きりの時など、気がつくと彼にボーッと見とれていた、ということがしょっちゅうある。 今のエレーナは、まさにそんな怜と同じ様子なのだ。しかも見つめる青い瞳には熱っぽい光が宿っている。 怜は思わずまた、アレクサンドルに目を向けてしまった。彼は笑顔でエレーナと話していたが、すぐにこちらの視線に気づき、小さく笑みを向けてきた。 「あ……」 ついそんな彼に見とれてしまいながら、怜は同時に不安がこみ上げてくるのをはっきりと感じていた。 こんなに凛々しく、笑顔が少年のように素敵な、しかも正真正銘の王様である彼を、世界中の女性が放っておくことなんて絶対にありえない。いや、もしかしたら男性でもそうかもしれないと思う。これまで全くその気がなかった自分さえ、彼に初めて会った瞬間から魅せられてしまったのだから。現にたった二週間離れただけで、彼に触れたくて触れたくて、もうどうしようもなくなっているのだ。 ましてやエレーナのような若い女性にとって、久しぶりに会った幼なじみが、見違えるように精悍な王様になっていたとしたら、心惹かれない方がおかしいのではないか。 ──そういえば彼女は、空港の売店で、チョコレートを買っていたっけ。俺が日本で買ったのと同じものだった……── いくつかのチョコを手にとり、食い入るように真剣なまなざしで選んでいた彼女の姿が脳裏に浮かんだ。真剣になりすぎて売り物の山を崩してしまい、あわてて拾い集めるのを怜も手伝ったのだ。あれは、本当に好きな相手へのプレゼントを選んでいる表情だった。 ヨーロッパでは、ヴァレンタイン・デーは日本と逆で、主に男性が女性にプレゼントやカードを贈る日である。けれど日本で暮らしたことのあるエレーナなら、この日のためにアレクサンドルへの贈り物を買ってもおかしくない。 ──でも、そうだとしたら……── 「……そういうわけで、陛下、先生。私も数日、こちらの王宮に滞在させていただきますが、どうか娘をよろしくお願いいたします」 「えっ……、ええ、勿論！」 その時、クラコフ首相に声をかけられて怜ははっとわれに返った。アレクサンドルがまた優しい笑みをエレーナに向けている。どきりとした。彼もまんざらでもないのかもしれないと思うと、胸が締めつけられるようになった。 「レイ先生は厳しいが、立派な方だからね。君はきっと多くのことを学べると思うよ」 アレクサンドルの言葉にそこにいた皆がうなずき、イヴァンはガッツポーズの仕草をする。 「はい、ありがとうございます！」 エレーナは緊張した面持ちで、それでも笑顔でうなずいた。その頬が、さっきよりもさらに紅潮しているのを見て、怜は漠然と感じていた不安がさらに広がり、頭の中をぐるぐる回り出すのを感じていた。 もう間違いない、と思う。彼女はアレクサンドルに恋しているのだ。あの時買ったチョコレートは、彼に贈るつもりなのだろう。 怜はそっと、胸ポケットを押さえた。そこには彼女が買ったのと同じチョコレートが入っている。その感触がしこりのように感じられた。 怜の気持ちをよそに、首相は上機嫌で続けた。 「いや、それにしてもエリシアには、若く頼もしい方々がたくさんいらっしゃって羨ましい限りです。そのうちのどなたかが、娘と人生をともにして下されば、本当に心強く思うのですが……。いかがでしょうね、レイ先生？」 「はい、それは、とても光栄なことだと思います……」 ──アレクサンドルだったら、確かに最高のお婿さんだよね……── 想いを必死に押し殺し、怜は平静な声で、そう答えたのだった。 |